人は地から離れては生きられない

なにかあったような気がした

思い出さず

 生徒指導の教師を思い出していた。あの高校は地方では有数の進学校(といっても都心部と比べればたいしたことはない)で生徒と教師からはよい家に生まれよい親に育てられよく生きてきたという自負や余裕があった。それは傲慢といってもいいものかもしれない。彼はそういう人間というより、地方の空気を濃く感じさせるタイプの教師だった。当時の経歴や教務室の空気から察せられるに順当な昇進コースとはいかなかったのだろう。それでも彼は一生懸命だった。すでに珍しくなっていた熱血漢で、生徒から持ち掛けられる相談や質問についてはそれが担当教科でなくとも熱心に応対していた。「わが校における自由、その歴史」という題で数日間の会議に出席してもらったことさえある。

 

 ただ彼は僕よりも早く高校を去ることになる。飲酒運転による事故を起こし、退職を迫られた。噂では運転手をしていたらしい元教師を生徒たちはあざ笑い、蔑んだ。自分たちはあんな奴とは違う。よい人生を歩むためよい大学へ行きよい会社に勤めよい地位を得るのだ。そうした人生観を共有し、確認するためのコミュニケーションだった。僕はといえばそのころにはもうまともに通学していなかったし、成績も落ちぶれ指導のため呼び出される日々だったので積極的に同調することはなかった。できなかったというべきかもしれない。彼らの多くは相変わらずの人生観で相応の人生を生きているようだが、何人かはそうではない。ある者は疲れ果て、ある者は敗れ去り、ある者はいなくなった。

  

 社会について考えると、思い出すことがある。誰かを貶し笑っていた過去の自分がいつか首を絞めにくる。よくある話だ

あれもせず

 大人はしっかりしていて社会はたしかなものだと思っていたし、今でも勘違いするときがある。悪いことだとは思わない。間違っていて正すべきものだとも、啓蒙しようなどという気もない。なにか間違っているものがあるとすれば、人間とは切り離せないものだろう。どこの・いつの・だれが悪かったということは言いたくない。どうしようなもない状況に置かれ、どうしようもなかった人間がいるだけだ。あまりにたくさんの人間がほんの少しずつ間違ってしまった結果として巨大な悪(そう呼ぶしかないもの)が生まれることだってある。

 

 あくまでひとつのものの見方でしかないし、もっと違う実践的・科学的な見方のほうがおそらく正しい。けれど人間は生きていかなければならない。社会や人間といったあやふやなものより、ほかならぬ自分を見つめながら人生を進んでいく時間のほうがずっと長い。そう思うようになってから、大きくて遠いものについて語ったり考えたりするようなことはあまりしなくなった。代わりに小さくて近いものと向き合うようになった。自分という存在から始まって、家族・友人・地域の住民、そして彼らが生きる土地。案外悪くないものだと感じる。誰かが間違えたら手を貸し、絆創膏を貼るくらいのことはできる。非凡であることを求め続けた過去の僕がみたら嘆くかもしれない。己を慰撫し続けるだけのつまらない人間だと蔑まれるかもしれない。彼にひとつだけ「君のおかげでこうしていられるんだ」と礼をいえたらと思う。

隙間

 ときどき自分がとっくに狂ってしまったんじゃないかと不安でたまらなくなる。誰かに話すことはない。「あなたは気が狂っている」と言える人はほとんどいないし、交わされたはずの言葉はすべて気の狂った自分がつくり上げた妄想かもしれない。ベッドに横たわり、一番大きな波が過ぎてしまうのをただ待つ。なにもしない、なにも考えない、なにも決めない。ただ存在することにほとんどの力を使う。ただ存在する、というのは聞こえよりずっと難しい。我々の多くは社会や他者と関わり、定められている。ただ自分が一個の人間としてある。精神と肉体に根ざした存在であることを確かめる。

 

 落ち着いてきたころにライターやアクセサリー、レザーなんかを手に取る。短くない時間使い続け、手入れをして、生活に含まれていたものたちだ。そこから自分が過ごしてきた時間を感じることで、ようやく意識が戻ってくる。人生の線上にまだ立っていることを思い出す。どんなふうであれ、死ぬまでは生きていかなければならない。

、朝だ。

 あなたと出会ってからずいぶんと長い時間が経ちました。いろいろなことがあった。いろいろなことを話して、考えた。それでも僕はずっとあなたのことを思っていたような気がする。はじめは近づきたいと思った。そばにいられたらいいと思った。気づけば離れていかないでほしいと思っていた。離したくないと思って、大切な存在になっていることに気づいた。「愛している」といえるほど立派なものではないし、「好きだ」といえるほどまっすぐなものではない。ふさわしい言葉はまだ見つからなくて、今は「引き受けたい」と思っている。たとえば言葉や感情、あるいは孤独。もっと大きなことをいえば人生だとか、あなた一人では抱えきれないそうしたものを僕が引き受けるようあれたらいい。

 

 現実は簡単ではないし、辛く苦しい。(どのような形であれ)人は簡単にいなくなるし、駄目になるし、終わったりもする。もう身に染みてわかっていることです。僕だってけして楽に生きているといえないし、あなたもそうだと思います。それでもできるかぎりのことをしていきたい。僕が自分自身の望む僕としてあるために、そしてそうやってあなたからいろいろなものを引き受けていくために、わずかばかりの残っているものを使っていきたい。うまくいかないことも多い。みっともないところや情けない部分もたくさん見せてしまった。けれどあなたはこうしていてくれる。本当に支えられて、救われて、抱えていた思いはずっと育まれてきた。

 

 社会や人生が希望を宿す明るいものだと思ったことは一度もないし、これからもないでしょう。ただそこにすこしでもあなたがいてくれたら、そんなに最悪ではないのかもしれないと思うし、またすこしだけやっていくことができる。僕もどこかでそうなることができたらいい。これからもきっと多くの物事が変わっていく。悪いほうへ変わってしまうこともたくさんある。だからこうして過ごせる時間は変わらずそのままでいられたらと願っているし、そうしていきたいと思っている。こういう言葉にしかできないけれど、ありがとう。